Christmas and Fascism

「愛と幻想のファシズム」をもじったタイトルですみません。
そろそろクリスマスの季節。街中にはイルミネーションが目立つようになり、クリスマスソングが嫌でも耳に入るようになってきた。僕のバイト先のビックカメラでも、サンタの格好をしたキャンペンガールがクリスマスセールのキャンペンなんかをやっている。
日本では、恋人と過ごす性格が強いクリスマスだが、海外ではそういうことはないらしい。むしろ家族団欒の機会であり、奉仕活動を行う機会だったりする。イエス・キリストの降誕を祝う日なのに、躍起になってともに夜を過ごす異性を探すほうがおかしいだろう。
そういえば、バレンタインデーだって、女性から男性にチョコレートをプレゼントするのは日本ぐらいらしい。諸外国では、チョコレートも贈るが、それ以外にも花やケーキ、カードなどをプレゼントしたりする。
ここまでしか書かないと、負け犬の遠吠えでしかないので、もうちょっと論述してみよう。
僕が思うに、これは日本の同質性の社会の産物だと思う。出る杭は打たれるというか、みんな一緒の行動を取りたがる。ポストモダンに突入した現代社会において、異性との出会いを儀式的に同じ日にするにはかなりおかしい現象だと思う。もちろん日本の社会が成熟していないというのではない。オタク文化から見られるように、日本の社会において「大きな物語」はかなり崩れてきている。
これらの現象の背後にあるのは、日本の表面的な民主主義があると思う。日本は世界でもまれに見る、単一民族国家で、本土を侵略されたことは一度もない。そこで、民主主義は意思決定の手段というより、単なるアイデンディティの確認手段と化している。
よく日本の会議で取られるのが、全会一致制である。会議ですべての人の意見を同等に扱い、細かいところまで議論をつくさないときがすまない。明らかに、これによって意思決定の効率は下がり、クリエイティブな意思決定はできないだろう。これを民主主義だと言い張って、頑として変えない人が多々存在する。しかし、実際は一体感が崩れるのが怖いだけなのだろう。日本の社会に閉鎖感があるのは、人々がいまだに画一的な価値観から抜け出せないからだと思う。
このように書くと、まるで僕が民主主義を否定し、ファシズムを賞賛しているように聞こえてしまうが、それは誤解である。僕が思う民主主義は、賢明なリーダーを中心に、各個人の意見を参考にした意思決定である。制度を守るために、その実効性を失ってしまうのはバカらしい。すべての人を満足させる案など、存在し得ない。ある優秀な一人がある程度まで作って、肉付けをみんなでやるのが理想の姿だと思う。逆に、表面的な民主主義では一気にファシズムに突入していく可能性が高いだろう。
ではファシズムのどこがいけないんだ、という話になってしまう。ファシズムは時間軸の流れに弱いという致命的な弱点があると思う。たしかに、一人の天才が存在するときはそれでいい。しかし次の指導者が天才である保障はどこにもない。まして、そのような極度に縛り付けられた社会が100年もつなどほとんど不可能である。
第二次世界大戦後にウィンストン・チャーチルは下院演説はこういった:
「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」
今のところ、僕もこれには同意せざるおえない。

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